日本の乾電池の歴史について

現代の私たちの日常生活で欠かせない「乾電池」は、世界中の様々な技術者達が発明を繰り返しながら作り上げたものですが、その中には日本人技術者も存在していました。

今回は、日本の乾電池の技術者と共に歴史についてご紹介致します。

 

電池はどうやって日本に伝わったのか?

イタリアで発明された電池ですが、日本にはどのように電池が伝わってきたのでしょうか?

1854年に米国のペリーが来日した時に幕府への土産として電池が伝わりました。持ってきた電池はダニエル電池と呼ばれるものでした。ですが、ペリーが日本に持ってきてからすぐに電池が使われ始めたわけではなく、使われ始めたのは電池を発明してから80年以上経って「乾電池」が発明されてからでした。

 

乾電池を発明したのは日本人??

世界ではドイツのガスナー、デンマークのヘレセンが1888年に乾電池の発明したとされていますが。しかし、それに先立つこと1年、1887年の時点で、日本人の屋井先蔵(やいさきぞう)の手により乾電池が発明されましたが、この事実はあまり知られていません。

そもそも、屋井先蔵とはどのような人なのでしょうか?

 

機械好きの少年が時計職人へ

1863年、新潟県の長岡に生まれ、幼い頃から科学に興味があった屋井先蔵は時計店で働き始めると、精密に回り続ける歯車たちの虜になり永久機関の研究を志すようになります。
その後、機械について学ぶために東京高等工業高校(現在の東京工業大学)への入学を志しました。

しかし、受験にわずか5分遅刻してしまったことにより、試験を受けさせてもらえず、受験は失敗してしまします。
これは、当時は手動のゼンマイ時計が主流だったため、時計の時刻はバラバラで正確な時間がわからなかったことが原因でした。この経験が引き金となり、電気で正確に動く時計の開発に情熱を注ぐようになりました。

 

電池から乾電池へ

屋井先蔵は1885年についに「連続電気時計」を完成させました。この時の特許は電気に関する日本初の特許となりました。しかし、電気が普及していなかった時代には早すぎた発明で、数台しか売れませんでした。また、「薬品が染み出して金具が腐食する」「寒い時期は内容物が凍り使えなくなる」などの欠点がありました。
そこで課題を解決するために液体を使わない「乾電池」の開発に本格的に取り掛かりました。

日中は工場で働き、それ以外の時間はほぼ研究と開発に費やし、平均睡眠時間は1日あたり3時間だったと言われています。液体だった電解液は、石膏を混ぜて固めることで持ち運んでもこぼれないようにしました。電池の正極の炭素棒にはパラフィン(ろう)を染み込ませることで液漏れを防ぎ、その結果ついに「乾電池」が完成しました。
この発明については東京理科大学の学報が1887年と伝えていることにより、世界で最初の乾電池の発明として言われるようになりました。

苦労の末に完成した乾電池ですが、電気製品が普及していなかった日本では、思うように売れませんでした。
ところが、日清戦争で照明や通信機器を使用するための電源として屋井の乾電池に白羽の矢が立ち、知名度と信頼度が一気に上昇しました。「日本がこの戦争に勝利したのは、屋井が発明した乾電池のおかげ」と大きく取り上げられ、乾電池はビジネスとしても大きな成長をし、数年後には「乾電池王」の異名を取るまでになりました。

 

今では、いつでも電気を持ち運べるのが当たり前の世の中になりましたが、そこに至るまでにはひとりの青年が試験に遅刻をし、その挫折から時計、そして電池の必要性を経験したことが開発のきっかけでした。失敗が元になり現代でも使われる「乾電池」という偉大な発明品となりましたが、もし試験に間に合っていたとしたら日本での開発はなかったかもしれないですね。

屋井先蔵はとても誇れる人物ですね。

 

【参考記事一覧】

Latest Article